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熊本地方裁判所 昭和32年(ワ)615号 判決

原告 国

訴訟代理人 広木重喜 外三名

引受参加人 八尋製材株式会社

主文

別紙第一物件目録記載の不動産ならびに別紙第二物件目録記載の伐倒木は原告の所有であることを確認する。

訴訟費用は引受参加人の負担とする。

事実

第一、当事者双方の申立。

原告指定代理人は、主文同旨の判決を求め、引受参加人(以下参加人という)訴訟代理人は「原告の請求を棄却する。訴訟費用は原告の負担とする。」旨の判決を求めた。

第二、原告の請求原因ならびに参加人の主張に対する反駁。

(請求原因)

一、別紙第一物件目録記載の山林(以下、土地のみのときは本件係争地といい、地上立木をも含めるときは本件係争山林という。)は端海野国有林(旧上小鶴国有林)の一部であつて、遠く明治時代から原告の所有である。

この国有林に隣接する民有地の熊本県球磨郡五木村字上小鶴一五七二番(後記のように現在は登記簿上一五七二番の一ないし三に分筆されている。以下地番のみをもつて表示する。)およびその隣接土地との境界については、明治三九年一二月二五日熊本大林区署長において別紙境界図表示の1ないし51の線のとおり境界査定を行い、明治四〇年一月査定処分の通告をなしたものであつて、これが実地調査には右一五七二番の土地所有者土肥亀吉も立会した。同人に対する右査定通知書は配達証明郵便により明治四〇年一月二四日送達されたところ、決定の六〇日の訴願期間内に訴願の申立がなかつたため、前記境界査定処分は右期間の経過により確定した。

二、本件係争山林を含む端海野国有林については、明治四三年中にその所管の八代小林区署において檜を植樹し、爾来現在にいたるまで管理し、占有を継続してきたものである。右檜の樹令は既に五六年(昭和四〇年現在)に達しその他同樹令位の自然生松なども若干生立し、隣接民有地とは林相を異にすることにより判然と区別されうるのである。

三、以上のように本件山林は国有地であることは明らかであり一点の疑いもはさむ余地は存しないのにかかわらず、参加人はその国有地であることを争い、参加人の前主沢田安吉(訴取下前の被告)は昭和三二年九月以来本件山林内の数ヶ所の立木(檜)を間伐と称して伐採したのであるが、その主張の根拠とするところは、本件係争地が参加人が所有すると称する一五七二番の一一の実地であるというにある。しかしながら、右の主張はつぎに述べるごとく何ら理由のないものである。

四、一五七二番の二は、現実には存在しない架空の土地である。一五七二番の二の分筆前の土地一五七二番山林三一町三反一畝歩は、本件国有林の東南に隣接し、もと土肥亀吉の所有であつたところ、この後所有権は転々として移転した。

昭和二三年七月二日、熊本県知事は、当時の所有名義人訴外前山勇三に対し自作農創設特別措置法第三〇条にもとづき右土地の一部二一町八反歩(実測面積)について未墾地買収処分をなし、昭和二六年一〇月一日代位して前記一、五七二番の二山林二一町八反歩(実測面積、前記買収地)と残地を一五七二番の一山林九町五反一畝歩(前記公簿面積三一町三反一畝歩より買収実測面積二一町八反歩を控除したもの)に分筆し、その登記を嘱託した。

右一五七二番の二は全地域に亘り開拓者により開墾されているのであるが、熊本県知事において買収登記をするのを遅れたため、登記簿上は依然元所有者の前山勇三の相続人前山のぶ外五名の所有名義となつているのを奇貨として、訴外石原又次郎は、昭和三二年一月二二日自己に所有権移転登記を経由し、字図が実地に吻合しないのを利用してほしいままに、前記未墾地買収土地として分筆した一五七二番の二の実測面積は前記のとおり二一町八反歩であるのにかかわらず、本件係争地を一五七二番の二に含ましめるため右実測面積を公簿面積にすりかえ、実測面積はそれをはかるに超ゆる一〇八町二反八畝二九歩であるとし、この実測面積一〇八町二反八畝二九歩が公簿面積二一町八反歩にあたるとなし、実測面積二一町八反歩は公簿面積としては四町六反五畝一八歩になると逆に算出し、一五七二番の二を更に一五七二番の三山林四町六反五畝一八歩(前記買収地に該当すると称する。)と一五七二番の二山林一七町一反四畝一二歩に分筆し、昭和三二年二月五日その登記を経由したものである。

以上のとおり、本件係争山林は原告の所有であり、別紙第二物件目録記載の檜の伐倒木は原告が植栽した本件係争山林の檜を不法に伐採したものであつて(同物件目録(イ)の物件は訴外大塚勇一郎の誤伐にかかるもの、同(ロ)の物件は後記(四)、(3) 、のとおり沢田安吉が不法に伐採し、甲斐寛忠らが競売手続をとつたものである)、いずれも原告の所有にかかるものである。

(公簿上いかにしてかかる架空の土地がつくられ、右土地をめぐつていかに多くの人が利益を得んとして奔走したかについての事情)

(一) 一五七二番が分筆されるにいたつた経緯。

(1) 、前山勇三名義に登記せられるにいたつた経緯。

右一五七二番は元土肥門平の所有に属し、明治三〇年五月一五日家督相続により土肥亀吉名義に登記せられたが、その後所有権は転々し磯野愛太郎の所有当時競売に付され、昭和八年一二月一六日なした競落許可決定により昭和九年一〇月二三日に志戸本啓作名義に登記せられ、同人の死亡後相続人志戸本健次郎は昭和一四年九月二八日右一五七二番を、主として松の生立する土地として金一万四、〇〇〇円にて山陽木材防腐株式会社(以下山陽木材ともいう)に譲渡したが、いかなる理由によるものか、その所有権移転登記は同会社九州工場支配人前山勇三名義になされた。勿論前記売買代金・諸経費は右会社より支出され、右山林は同会社財産として管理せられ、その後右山林に関する税金も同会社より納付されてきたものである。

(2)  未墾地買収の経緯。

昭和二三年七月二日、熊本県知事は登記名義を信頼して前山勇三に対して自作農創設特別措置法第三〇条にもとづき、一五七二番の東北部の一部、実測二一町八反歩について未墾地買収処分をなし、右処分は確定した。よつて、山陽木材の代理人である同会社々員天野勘太郎の立会を求めて土地を実測の上、境界を確定し、買収地の引渡をうけ、開拓者を入殖させ、売渡処分をも了したが、右買収地の分筆および所有権移転登記は未了であつた。

(3)  一五七二番が分筆せられた経緯。

昭和二四年二月三日前山勇三が死亡し、鍵原福松が同会社九州工場の支配人となつたが、昭和二六年にい紛り、同人は会社財産を他人名義で管理することにより紛争の生ずることをおそれ、これを会社名義に移転登記手続をしようとしたが、それにはまず買収地の分筆登記をする必要があつた。よつて、熊本県開拓課係員と折衝の結果、同年一〇月一日球磨開拓事務所の水野介夫が熊本県知事桜井三郎作成名義の昭和二三年大蔵・農林省令第二号第三条による土地分筆申告書ならびに自作農創設特別措置登記令(昭和二二年勅令第七九号)第七条第一項にもとづく分筆の代位登記嘱託書を作成の上、これを熊本地方法務局四浦出張所に提出、買収地を一五七二番の二として分筆し、その地積を二一町八反歩となし母番の一五七二番の一の地積は一五七二番の公簿上の地積三一町三反一畝歩より分筆の地積を控除した九町五反一畝歩と定めた。一筆の土地の一部買収により分筆登記をするについては、買収地の登記の地積は必ず買収実測面積をもつてすることとされ、母番の土地の実測面積に比例してその地積を圧縮・伸張することは許されなかつた。

しかしうして、正確には、まず、分筆前の土地の地積を実測面積に符合するように訂正して、それより買収地の実測面積を控除し、残余を母番の地積とすべきであるが、前述のごとく分筆前の土地の地積を訂正することなく、買収地の実測面積を控除する簡便な手続も認められていたのである。いずれにしても、前記登記令により熊本県知事が代位して分筆登記の嘱託をなしうるのは買収地にかぎり、買収地外の土地をも含めて代位して分筆する権限を有しないことはいうをまたないところである。

翌一〇月二日山陽木材は買収地外の土地である一五七二番の一について前山勇三の相続人に相続登記をするとともに、右相続人らより所有権移転登記を経由したのであるが、昭和三一年九月一五日上妻初太郎に譲渡して同年一〇月一日所有権移転登記手続をなしたが、現在では山陽パルプ株式会社の所有名義となつている。一方買収地である一五七二番の二について前山勇三の相続人らに相続登記がなされたまま買収登記の嘱託はなされなかつた。

(二) 一五七二番の二が弁護士石原又次郎名義に登記せられるにいたつた経緯。

(1) 、岡部俊佐、石原又次郎が山陽木材より一五七二番の一の譲渡をうけんとして目的を達しえなかつた経緯。

前記一五七二番の一、二の北西部に隣接する端海野国有林はその民有地との境界について明治四〇年一月熊本大林区署において境界査定処分がなされ、その区域が確定され国有地であるが明らかであるにもかかわらず、この附近の字図が実地と吻合しないため、字図よりみれば、一五七二番があたかも右国有林の一部に該当するかのごとくみえるので、これを利用して従来からも右国有林の一部が一五七二番の実地であると主張して熊本営林局に対して民有地確認の申請あるいは訴願をなす者が何人かあつたのであるが、同営林局はその都度右主張を拝斥してきた。

岡部俊佐は前記国有林の檜の払下をうける権利の譲渡をうけたと主張して、昭和二四年頃から坂本景生を介して林野庁に対して払下運動をしてきたが、目的を達しなかつた。昭和二六年にいたり、土地所有者の代理人の資格で運動をするほうがその目的を実現するについて容易であると考え、一五七二番の一の所有者である山陽木材九州工場支配人鍵原福松に対して同会社の代理人として営林局に対して民有地確認の申請をしたいから、右手続一切について委任をうけたいと申入れたところ、もともと同会社では前所有者からの買受対象も松山の部分に限られ、会社財産としての管理も、その部分についてのみであつて、国有林である檜の生立地が、自己の所有地に含まれているとは考えていなかつたのであるが、万一右申請が容認せられれば自己所有地の範囲が拡大せられることとなり、好都合であるので、成功すれば相当の謝礼をする旨のもとに岡部俊佐に右手続を委任することにした。

よつて、同人は直ちに熊本営林局長に対し、民有地確認申請および境界査定額を提出するとともに、前本渡市長金子亮夫、代議士園田直を動かして農林省林野庁に政治折衝をしたのであるが、前記申請に対しては昭和二七年四月一四日同局長より詮議に及び難しとして却下せられ、政治折衝もこれまた成功しなかつたので、昭和三〇年四月同会社は岡部俊佐に対する前記委任を解除するにいたつた。

かくて右檜の造林地を獲得する手掛りを失うにいたつた岡部俊佐は、この上は一五七二番の一の譲渡をうけるの外はないと考え、同会社に右土地の譲り受け方を申入れたところ、同会社では松山の部分の相当額約金一三〇〇万円で譲り渡すことを承諾した。よつて、岡部俊佐は右金員の調達に努力したのであるが、その頃安成竜千代(宮崎県在住)の紹介で弁護士石原又次郎を識り以後同人らと共同で前記一五七二番の一の譲渡をうけることとなつた。一方山陽木材では一五七二番の一の山林売買についてブロカー暗躍の報をうけ、岡都俊佐に売買代金支払の能力のないことを知つて前記のごとく昭和三一年九月一五日上妻初太郎に譲渡し、同年一〇月一日所有権移転登記手続を了したのである。

(2)  岡部俊佐が前山のぶ外五名より一五七二番の二の譲渡をうけるいたつた経緯。

岡部俊佐、石原又次郎らは山陽木材より一五七二番の一の譲渡をうけることに失敗したのであるが前記熊本県知事が代位して分筆登記を嘱託するに際し、簡易な方法での登記手続が認められたため、一五七二番を南北二つに適当に境界線を引き、北部すなわち、八代郡との境界にした面部分を一五七二番の二と記載した図面を添付したため、一五七二番の二があたかも字図上本件係争山林の一部に該当するような形になつていた。そこで、同人等は一五七二番の二の登記名義を譲り受け、これに国有林が含まれていると主張しようとして、その登記名義が依然前山勇三名義に残つているのを奇貨として前山勇三からその譲渡をうけようと企てるにいたつた。

岡部俊佐は、昭和三一年八月頃前山のぶらに対して右土地の譲渡について交渉したが、同人らは当初は右土地は山陽木材の所有にかかり、同人らは単なる名義人にすぎないから同会社九州工場支配人鍵原福松に交渉してくれとて取り合わなかつた。岡部俊佐は同月二二日石原又次郎の仲介で竹本仁三郎を識り同月二四日同人との間に、

「(イ)、自己所有にかかる一五七二番の二山林公簿面二一町八反歩実測約一〇七町歩中農林省の未墾地既買収にかかる実測二一町八反歩を除きたる部分を左記条件をもつて売渡すこと。

1 代金は金五〇〇万円と定め、内金一二〇万円は本書成立と同時に支払う。

2 残金三八〇万円については竹本仁三郎名義に前記山林所有権移転登記完備引渡と同時に支払う。

3 竹本仁三郎は前記山林所有権取得後これを処分して得たる利益中金一、〇〇〇万円を差引きたる残額につき四割を取得の都度岡部俊佐に贈呈すること。

(ロ) 岡部俊佐は前条記載売却にかかる山林が現在前山勇三名義となつており、かつ、農林省の既買収にかかる部分は、未登記となつているので、速かに官収部分と前山分の分筆登記をなさしめ前山勇三相続人名義の前条山林売渡並びに登記に関する必要書類を取揃えて竹本仁三郎に引渡すこと。

(ハ) 岡部俊佐は竹本仁三郎の前記山林処分につき協力すること。ただし、これが費用は竹本仁三郎において一時立替えおき、利益分配のとき必要経費として計上すること。」の契約を締結し、その旨の契約書を作成するとともに岡部俊佐は同日竹本仁三郎より現金一二〇万円を受領した。右契約締結に際して岡部俊佐は石原又次郎、竹本仁三郎に対して従来の営林局との払下交渉の経過、境界査定処分のなされていること、ならびにその法定効力、一五七二番の一部については未墾地買収処分がなされたため、分筆がなされ、その残余の部分を一五七二番の一として山陽木材に移転登記がなされた経緯について詳細に説明したのであつた。

かくて、岡部俊佐、石原又次郎らは前山のぶ、養子金次郎ならびに鍵原福松らに対し一五七二番の二の登記名義の譲渡について再三にわたり交渉したのであるが、同人らは応じなかつた。

石原又次郎は、同年九月支配人鍵原福松を訪ね、同人より一五七二番の二について、

「(a)、一五七二番の山林は、志戸本健次郎から山陽木材が買受け、登記名義を当時の九州工場支配人前山勇三名義にしたこと。

(b)、一五七二番のうち、二一町八反歩が未墾地買収されたこと。

(c)、前山勇三死亡後会社名義に登記を移す際未墾地三買収された二一町八反歩を県と折衝して分筆したこと。その分筆の際一五七二番の二地積は実測面積どおりになつていること。

(d)、未墾地買収地を分筆した残余の部分を一五七二番の一として会社名義としたこと。

(e)、会社が志戸本健次郎より買受けた当時一五七二番は松山の部分に限り檜の造林地は右地番に含まれていなかつたこと。」

の説明をうけた。岡部俊佐は前山のぶらが譲渡に応じないので同月二五日石原又次郎を代理人として熊本簡易裁判所に対し前山のぶらを相手方として一五七二番の二のうち未墾地買収地を除いた部分について所肴権移転登記手続を求める旨の民事調停の申立をなし、昭和三一年一〇月四日に調停期日が開かれたが、不調に終つた。

その後前山勇三の相続人前山金次郎は岡部俊佐らの「鍵原の方は自分の方で話をつける。又一五七二番の二には開妬地も含またているが、これも県当局と円満に解決する。」との申出を諒承し、岡部俊佐は同月二〇日前山金次郎との間に、

「(a)、前山金次郎ら共有にかかる一五七二番の二山林公簿面二一町八反歩中農林省が既に買収した都分(実測二一町八反歩)を除外した残地を金一五〇万円にて岡部に売渡し、岡部俊佐はこれを買受け、本日代金五〇万円を前山金次郎に支払い前山金次郎はこれを受領した。

(b)、前山金次郎は前記農林省の分筆登記完了の上は残金一〇〇万円と引換えに所有権移転登記に関する書類を岡部俊佐に交付するものとする。

(c)、岡部俊佐はいかなる事由によるも、本件に関し前山金次郎に対し代金返還あるいは損害賠償等一切の金銭的請求をしない。

(d)、岡部俊佐は、前山金次郎の本件山林売買により生ずる諸税・公課を前山金次郎の納付書呈示と同時に支払う。」

旨の契約を締結し、その旨の契約書を作成するとともに、金五〇万円を支払、同年一一月石原又次郎の調達した金員中より残金一〇〇万円を支払い、所有権移転登記手続に必要な書類の交付をうけた。しかしながら前記のごとく昭和二六年一〇月一〇熊本県知事は未墾地買収地を分筆して一五七二番の二としたのであるから、右一五七二番の二より買収地を除けば皆無となり、実質的には前記売買契約の対象は存在しないのであり、岡部俊佐は右売買契約により何らの権利をも取得しえなかつたものといわざるをえない。

一方岡部俊佐は前記調停の申立をなした直後竹本仁三郎より本件山林が国有地であつて、岡部のいうように払下はできないことを理由に解約の申込をうけ、やむなく同年一一月二〇日前記石原又次郎の調達した金員中より金二〇〇万円を返還して右契約を解除するにいたつた。

(3) 、一五七二番の二が石原又次郎名義に登記されるにいたつた経緯。

岡部俊佐、石原又次郎は前記のごとく一五七二番の二に国有林の檜造林地が含まれていると称して営林局に払下の運動をなし、あるいはこれを他に譲渡しようとした。これらの行為は石原又次郎が代つてすることになり、譲渡については甲斐寛志、竹智三郎ら、あるいは佐藤三治、沢田安吉、政岡昭秀らその他の者に譲渡し、内金を受取り、その後国有林であることが判明して契約を解除されるや、内金を返還するため、更に譲渡し、あるいは譲受人に代金の一部として右返還債務を引受けしめた事情の詳細は後記のとおりである。

岡部俊佐は前記のごとく一五七二番の二の登記名義の譲渡をうけ、登記手続に必要な書類の交付をうけていたのであるが、登録税等の関係より登記未了のままでいたところ、昭和三二年一月石原又次郎は同月二二日一五七二番の二について自己に所有権移転登記手続をなした。

(三)、石原又次郎が一五七二番の二についてさらに分筆登記をなした経緯。

石原又次郎は前記所有権移転登記後さらに一五七二番の二を、二と三に分筆して、分筆前の一五七二番の二に国有の檜造林地を含ましめるように作為し、その分筆方を土地家屋調査士司法書士籾田敏雄に依頼した。しかうして右分筆申告については、本来分筆地の実測図を土地家屋調査士に作成させて添付する必要があり、かつ、公簿上の地積が実測面積と相違するときは、まず母番の測量図を作成し、母番の地積を訂正したのち分筆申告すべきであるが、分筆前の一五七二番の二に国有林の檜造林地を含ましめようとすれば、まず、一五七二番の二の地積と未墾地買収地積二一町八反歩に檜造林地積八六町四反八畝二九歩を加え合計一〇八町二反八畝二九歩と増加訂正せなければならないことになる。しかし、地積の増加訂正の場合には隣接所有者の同意を必要とするところ、隣接地の所有者には国も含まれ、到底かかる地積増加に同意をうる見込がないので、国有林の檜造林地と未墾地買収地の実測面積の按分比例で二一町八反歩を分割して分筆するよう籾田敏雄に依頼した。よつて同人は何ら実地測量をすることたく、県より入手した測量図によつて未墾地買収の地形のみを真似て地積は前記按分比例により算出した数字により圧縮した測量図を作成し、昭和三二年二月五日これを分筆申告書に添付して熊本地方法務局四浦出張所に提出して分筆登記手続をなしたものである。

(四)、甲斐寛志らが石原又次郎より一五七二番の二の譲渡をうけ、後に右契約を解除するにいたつた経緯。

(1) 、甲斐寛志が石原又次郎より一五七二番の二の譲渡をうけるにいたつた経緯。

竹智三郎(宮崎県在住)は昭和三一年六月頃本件係争山林が一五七二番の二として売りに出されていることを知り実地を調査の上甲斐寛志らと共同して買受けることにし、登記名義人前山勇三の相続人である前山のぶ、前山金次郎と交渉を重ね金五〇〇万円で買受けるところまでになつたのであるが、前記のごとく岡部俊佐より調停の申立があり同人に譲渡せられ更に石原えと移転したので、結局籾田敏雄らの仲介で昭和三一年一二月六日甲斐寛志が買受人、竹智三郎が立会人となつて石原又次郎より一五七二番の二を金一一〇〇万円で買受け、二回にわたり内金五三〇万円を支払つた。

(2) 、右譲渡契約が解除されるにいたつた経緯。

右買受人甲斐寛志、竹智三郎は、本件係争山林につき、林野庁、熊本営林局と払下の折衝を続けたが、右土地は国有林であつて、境界査定処分も確定している、又払下はできない旨説明をうけ、その目的を達しないことが明らかになつたので、石原又次郎との間の契約を解除し、すでに支払つた内金五三〇万円は同年二月末日までに返還をうけることを約した。

(3) 、甲斐寛志らが檜の伐倒木を競売するにいたつた経緯。

右(2) のように石原又次郎は甲斐寛志らに対し昭和三二年二月末日までに金五三〇万円を返済することを約したにもかかわらず、期限が経過しても履行しなかつた。督促を続けた結果同年九月八日にいたり、ようやく現金一〇〇万円の支払をうけ、残金は沢田安吉、高橋義治振出の額面四五〇万円の手形を受取つた。手形債務者沢田安吉、高橋義治は右手形金を支払う見込がなかつたので、右債務の代物弁済として同年一〇月四日同人らが不法に伐採した本件係争山林の檜の伐倒木(別紙第二物件目録(ロ)の物件)を甲斐寛志らに引渡すことを内諾し、同月八日これが引渡をなし、甲斐寛志、竹智三郎は右が国有林の伐倒木であり、沢田安吉らが不法に伐採したものであつて、したがつて、その所有権は依然国に属するものであることを知りながら、これが引渡をうけたものである。

かくて、甲斐寛志、竹智三郎は右伐採木の処理について梶原敏明と協議の結果、強制執行手続を利用して処分しようと企て、竹智三郎を債権者、甲斐寛志を債務者とする元金五三〇万円の内容虚偽の金銭消費貸借契約公正証書を作成し、右を債務名義として、右伐倒木に対する強制執行をなし、結局債権者竹智三郎が自ら金五六〇万円で競落した。このような強制執行手続の形式をとつたのは強制執行に籍口して伐倒木の即時取得を主張しようとしたがためである。

(五)、佐藤三治らが石原又次郎より一五七二番の二の譲渡をうけ、後に右契約を解除するにいたつた経緯。

佐藤三治、佐藤英三、高倉善市らは石原又次郎の代理人安東武雄と折衝の結果昭和三二年二月七日石原又次郎より本件係争地の檜立木は営林局より確実に払下げられるものとして旧開拓道路より以西の部分を金一、八〇〇万円で譲渡をうける旨の契約を締結し、佐藤三治は内金八〇〇万円を支払つたが、更に同年三月九日旧開拓道路以東の部分を金一、〇〇〇万円で買受ける契約を締結し、同月二二日石原又次郎の要求により内金三〇〇万円を支払つた。しかし、佐藤らは調査の結果払下計画のないことを知り同年四月三日右契約を解除するにいたつた。

(六)、沢田安吉らが石原又次郎より一五七二番の二の譲渡をうけ、間伐と称して立木の一部を不法に伐採し、競売するにいたつた経緯。

(1) 、沢田安吉らが一五七二番の二の譲渡をうけ一部を伐採するにいたつた経緯。

沢田安吉、政岡昭秀、高橋義治は昭和三二年七月下旬、友井健太、守田宝蔵、帯金広文の仲介で右山林の譲渡をうけることになり、同年八月一一日石原又次郎との間に右山林を金三、八〇〇万円にて買受ける契約を締結し、同日内金として株式会社肥後銀行本店の額面四〇〇万円の自己宛小切手を交付し、前記佐藤三治と石原又次郎との譲渡契約解除に伴い、石原又次郎が佐藤三治に返還すべき内金九〇〇万円の債務を引受け、右債務を担保するため右山林に抵当権を設定することを約した。つづいて、内金として額面三五〇万円の小切手と沢田安吉、高橋義治振出の約束手形一三通額面合計九五〇万円を、更に一〇月初右両名振出の額面一、二〇〇万円の約束手形を交付し、なお、九月一一日沢田安吉名義に所有権移転登記手続を、同月一四日前記抵当権設定登記手続を了した。

しかし、その後調査をなし営林局係員より右買受山林の現地が国有であることの説明をうけたものの、既に多額の金員を出損していたところから、それの回収方法として、ついに九月一七日間伐妨害禁止の仮処分命令をえて、同月二二日から伐採を強行した。

(2) 、沢田安吉らが前記伐採木について競売するにいたつた経緯。

沢田らは右のとおり仮処分命令をえて本件係争山林の檜を伐採したが、係争物件のため通常の方法で売却することが困難であるところから強制執行手続を利用することにし、債権者政岡昭秀、債務者沢田安吉、元金一、二〇〇万円の内容虚偽の公正証書を作成し、右公正証書を債務名義として昭和三二年九月二七日伐倒木の差押手続を了し、同年一〇月一二日藤井高義が金八〇〇万円で競落した。(右藤井の競落物件のみについては福岡高等裁判所において、国が藤井の所有権を認める旨の裁判上の和解が成立した。)

(七)、沢田安吉から一五七二番の二の登記名義を友井健太に譲渡し、その後参加人に譲渡し、同被告が本件訴訟を引受けるにいたつた経緯。

沢田安吉らが、石原又次郎より一五七二番の二の登記名義の譲渡をうけた際その代金の一部として石原又次郎が佐藤三治に返済すべき内金九〇〇万円の債務を引受け、一五七二番の二に抵当権を設定したことは前述のとおりであるが、右債務の弁済期は昭和三二年一〇月三一日であつたところ、沢田らは伐採を中止するのやむなきにいたつたため、右債務弁済の見込がなくなり、ついに、やむなく同年一一月一日一切の整理がついた後六割の利益配当をうける約にて登記名義を友井健太に譲渡することを承諾し、同月四日所有権移転登記手続を了した。

ところが、その後参加人は昭和三四年四月右友井から本件係争山林を同年六月末迄に無疵にして引渡しをうけることを条件に代金を金六、五〇〇万円と定めて売買契約を締結したが友井は右六月末迄に履行できず、昭和三五年二月末迄延期したが、それも履行の見通しができなくなつたので、同月二〇日被告がそれ迄に友井に交手した金一、一六〇万円で本件係争山林を買受け、訴訟の勝敗如何にかかわらず、相互に本件係争山林に関する一切の請求をしないこと、本件山林に設定した抵当権は参加人において解決することに確定的取決めをなし、本件訴訟引受をなしたものである。

(参加人の主張に対する反対主張)

参加人主張の競売関係については、不動産競売中一五七二番の競売において本件係争山林が競落の対象となつたことを争いその他は認める。参加人は本件係争山林は数次にわたつて競落されたので、競落人は本件係争山林の所有権を原始的に取得する旨主張するけれども、かりに競売の対象となつたとしても、不動産については動産におけると異なり、即時取得を論ずる余地はないし、本件係争地内の檜の伐倒木は原告の所有にかかる本件係争山林の檜を不法に伐採したものであり、伐採前原告において所有管理し、明認を施してきたものであるから、これが不法伐採により原告が所有権を喪失するいわれはない。

参加人主張の交換契約の事実は否認する。

第三、参加人の答弁ならびに主張。

(請求原因事実に対する認否)

請求原因事実一、の事実のうち原告主張のとおりの境界査定の外形的事実の存在、一五七二番が同番の一ないし三に分筆された事実は認めるが、本件係争山林が端海野国有林の一部であつて、遠く明治時代から原告の所有であるとの事実は否認する。

請求原因事実二、の事実は本件係争山林が隣接地と林相を異にするとの点を除き認める。

請求原因事実三、の事実は本件係争山林が国有地であるとの点を除き認める。

請求原因事実四、の事実は一五七二番の二が架空の土地であることを除き認める。石原又次郎のなした分筆は実地に符合する適法のものであり、架空のものではない。

(原告が事実関係の経緯として述べる事情等についての認否)

(一)、の一五七二番が分筆されるにいたつた経緯中(1) 、の前山勇三名義に登記せられるにいたつた経緯は、前山勇三が単なる登記名義人にすぎないとの点を除き認める。(2) の未墾地買収の経緯は争わない。(3) の一五七二番が分筆せられた経緯については分筆についての外形的事実、山陽木材が一五七二番の一についての移転登記をなし、その後上妻、山陽パルプと移転しその登記を経由した事実は争わない。

(二)、の一五七二番の二が石原又次郎名義に登記せられるにいたつた経緯中、(1) の岡部俊佐、石原又次郎が山陽木材より一五七一番の一の譲渡をうけんとして目的を達しなかつた経緯についての主張事実のうち、本件係争地について民有地確認申請、訴願の申立をした事実は認めるが、本件係争地が国有地であることは否認する。岡部俊佐が本件係争山林について払下運動をしたこと、山陽木材との間に、本件係争地について、民有地確認申請手続をとることに関し、原告主張のごとき契約を締結したことは認める。(2) の岡部俊佐が前山のぶ外五名より一五七二番の二の譲渡をうけるにいたつた経緯については、分筆方法が原告主張のとおりであることは争わない。石原又次郎が鍵原福松から原告主張のような説明をうけたとの事実は否認する。岡部俊佐と前山金次郎間に一五七二番の二のうち、未墾地買収地を除いた残地に関し、売買契約を締結したことは認めるが、該売買契約が原告主張のごとき実質上対象のない架空の土地の売買であるとの点は否認する。(3) の一五七二番の二が石原又次郎名義に登記されるにいたつた経緯中の石原又次郎に所有権移転登記を経由した関係部分の外形的事実は認める。

(三)、の石原又次郎が一五七二番の二について更に分筆登記をなした経緯については、一五七二番の二を更に同番の二と三に分筆することにつき、原告主張のように按分比率によつたことは認める。

(四)、の甲斐寛志らが石原又次郎より一五七二番の二の譲渡をうけ、後に右契約を解除するにいたつた経緯中、石原又次郎と甲斐寛志間に本件係争山林について売買契約を締結し、後にこれを合意解除したこと、原告主張の公正証書にもとづき強制執行をしたことは認めるが、本件係争地が国有地であることを前提とする原告の主張事実および右公正証書が内容虚偽のものであるとの主張事実は否認する。

(五)、の佐藤三治らが石原又次郎より一五七二番の二の譲渡をうけ後に右契約を解除するにいたつた経緯中、契約締結、解除の事実は認めるが、本件係争山林が国有であることは否認する。

(六)、の沢田安吉らが石原又次郎より一五七二番の二の譲渡をうけ、間伐と称して立木の一部を不法に伐採し競売するにいたつた経緯中、(1) の沢田安吉らが一五七二番の二の譲渡をうけ一部を伐採するにいたつた経緯については、石原又次郎と沢田安吉間に売買契約のあつたこと、仮処分をえて本件係争山林の檜立木を間伐したことは認めるが、本件係争山林が国有であることは否認する。(2) の沢田安吉らが前記伐採木について競売するにいたつた経緯については、原告主張の債務名義にもとづき伐倒木を競売したことは認めるが、右公正証書が内容虚偽のものであることは否認する。

(七)、の沢田安吉が一五七二番の二の登記名義を友井健太に譲渡し、その後参加人に一切の権利を譲渡し、同参加人が本件訴訟を引受けるにいたつた経緯については、沢田安吉から友井健太、友井健太から参加人に本件係争山林についての権利の譲渡が夫々あつたこと、友井健太と参加人間の譲渡契約にいたる経緯および訴訟引受の事情が原告主張のとおりであることは争わない。

(参加人の主張)

第一、本件係争山林は一五七二番の二であつて、原告主張の一五七六番、一五七七番の二の国有地ではない。

本件係争山林は、元土肥門平所有の一五七二番の一部であり、その後転々譲渡がなされ、現在参加人が所有しているが、本件山林が民有地の一五七二番の一部であることはつぎのとおり明確である。

一、公図上における一五七二番その他周辺土地の配置と現地との対比、ならびに一五七二番について民有地としての課税をなしている事実。

五木村役場備付の字図では一五七〇番、一五七一番、一五七四番はいずれも官地となつており、一五七三番、一五七七番の二はいずれも溝口上地による官地、一五六一番の二は土肥上地による官地、一五七二番は元土肥亀吉所有と記載されているし、官林原野一筆限帳には「官林の部白岩戸一五七一番(反別一町歩)、同一五七三番(反別二町歩)同一五七六番(反別三町歩)、官林上地なせし分上小鶴一五七七番の二(反別一五町歩)、同一五六一番の二(反別一四七町六反六畝歩)」と記載されており、右一五七七番の二は溝口の上地、一五六一番の二は土肥亀吉の上地にかかるものであり、また、五木村長、八代郡川俣村長などの証明によつても明らかなごとく一五七二番は八代郡川俣村に隣接していて両地間に他の地番が介在しないこと、五木村字上小鶴と八代郡川俣村馬石国有林との境界は峠界すなわち分水嶺である事実、一五七二番は一五七一番(官有)と一五七三番(官有)との間に挾まり地番順になつていることから判断すれば本件係争山林は一五七二番の一部であるといわざるをえない。

原告は本件係争山林が元国有地であつた一五七六番と溝口上地にかかる一五七七番の二であるというけれども、公図上においては一五七七番と一五七二番とは極端に離れた場所にある。しかるに、本件係争山林が原告主張のとおりだとすると、現地においては一五七二番と一五七七番の二、一五七六番とが隣接することになり、それ自体不自然であるといわなければならない。そもそも地番の設定は順次番を追つて付することは常識であり、原告主張のごとき非常識な地番設定はありえない。

しかも、五木村役場においては本件係争山林の現地が一五七二番の民有地にあたるものとして課税すらしているのである。

二、数次に亘る競売の事実。

右一、に述べたように本件係争山林は一五七二番に該当するというべきであるが、そのことは、分筆前の一五七二番が本件係争山林を含む現地にあたるものとして裁判所において鑑定の上競売されており、そのため競落人は本件係争山林を一五七二番の一部として競落しているし(第一回大正五年七月二五日、第二回昭和二年六月二〇日、第三回昭和八年一二月一六日)また、本件係争山林の伐倒木を一五七二番の二の地上立木の伐倒木であることを前提として競売し、更に、昭和三五年七月一一日本件係争山林を一五七二番の二にあたるものとして競売申立をなし、競売開始決定がなされている事実からしても明らかである。

三、境界査定によつては本件係争山林が国有とならない理由。

本件係争山林について原告主張のように1ないし51を結ぶ線を官民有の境界としてその査定をなしたこと自体は前記答弁のとおり参加人においてこれを争わないのであるが、右の境界査定によつては、本件係争山林は国有とはならない。以下その理由を述べる。

(イ)、原告主張の境界査定は単に形式上のことにすぎず、その実質は国有地と民有地一五七二番の一部との交換契約であつた。すなわち、熊本大林区署々員境界査定官(以下査定官という)は、本件係争地附近に馬石国有林があり、本件係争地が肥沃していて植林の適地であり、馬石国有林と一括植栽管理するにおいては将来優秀な国有林となることに目をつけ、本件係争地を国有地に編入することを企て、明治三九年一二月本件係争地の現地において、該土地を国有地のごとく査定しようとしたところ、その所有者土肥亀吉が強硬に反対したため、査定官は一旦山を下り、熊本県球磨郡五木村土肥亀吉方において養子要、ならびに尾方有吉(当時五木村長)中村仙太郎(五木村有志)立会の上、同人に対し「本件係争地を含む分筆前の一五七二番のうち官の希望する場所を官に分割移譲する。その代償として、官は査定の際官有地一五六一番の二(上地林)の全部および一五七〇番と一五七一番のうち一五七二番に隣接する一部を分割移譲する。」ことを申し述べて亀吉の同意を求めたので、亀吉もこれを了承し、ここに右内容の官民有土地の交換協定が口頭で成立した。

右交換契約について文書を作成しなかつたのは、右亀吉らは千山幽谷の地に住む善良な人民であつて、国の官吏の言を絶対視していたこと、査定官において現地査定を実施すれば、その実施により交換も対外的にも確定し、公簿上の交換手続を要しない旨、その理由として、

「1 一五六一番の二(土肥上地による官地)の実地を土肥所有地一五六三番として併合査定し、

2 一五七二番のうち、官の希望する分割地区に官有地一五六一番の二の地番を附し、

3 一五七〇番および一五七一番の一部(いずれも官地)を土肥亀吉所有の一五七二番の境界に沿い分譲して引渡すことにする。」

と説明したので土肥亀吉は右査定官の言をそのまま信用したがゆえである。

右のように、土肥亀吉は右査定官の交換契約の履行としての境界査定に同意し、これに協力したのである。しかるに、査定官は原告主張の境界査定を終るや、土肥亀吉に譲与すべき地域の査定をなさず、急きよ熊本大林区署に帰庁した。その後屡次にわたる土肥からの交換契約履行の要求にかかわらず、査定官はついにこれを実施しなかつた。

右の次第であつて、土肥亀吉は交換契約後査定官の言を信じ本件係争地について官の植栽にも協力し、交換地の分与の履行を待つたが、履行しないので、その後右の交換契約を解除した。

このように名を境界査定に藉りた交換契約が解除された以上、その形骸たる境界査定も独立して有効に存続するわけがなく、本件係争地は元の所有者たる土肥亀吉に復帰し、地上立木もまた同人の所有となつたわけである。

(ロ)、かりに、右の交換契約と境界査定とが一体でなく、別個の行為であるとしても、右境界査定が有効であるためには、土肥亀吉所有の一五七二番の一部である本件係争地を国が交換により取得してはじめて、ここに新たに官民有土地の境界を生じ、査定の要件を具備するにいたるものであるところ、前記のとおり該交換契約が解除された以上、国は査定の要件たる隣接国有地を所有しないことに帰し、前記境界査定処分は取消しをまつまでもなく効力を失つたといわなければならない。

第二、つぎに、本件係争地が分筆前の一五七二番に含まれていなかつたとしても、一五七二番は前述のとおり、数次の競売によつて、転々譲渡されたものであり、各競売において、本件係争地も一五七二番に包含されたものとして裁判所における鑑定手続を経てなされたものであるから、各競落人は本件係争山林をも該競落により原始的にその所有権を取得したものというべく、参加人は当該部分を一五七二番の二として承継取得したものである。

又原告が所有権の確認を求める第二物件目録記載の檜伐倒木も一五七二番の二の山林所有権に属するものであつて、原告の所有ではない。

第四、証拠関係

原告指定代理人は、甲第一ないし第一一号証、第一二号証の一ないし三、第一三ないし第一五号証、第一六号証の一ないし六、第一七号証の一ないし四、第一八号証、第一九号証の一ないし四、第二〇号証の一ないし五、第二一号証の一ないし三、第二二号証の一ないし五、第二三ないし第二五号証、第二六号証の一ないし四、第二七号証、第二八号証の一ないし三、第二九号証、第三〇号証、第三一ないし第三三号証の各一ないし三、第三四号証の一、二、第三五号証、第三六号証の一ないし三、同号証の四の一、二同号証の五、六、第三七号証、第三八号証、第三九号証の一、二、第四〇号証、第四一号証の一、二、第四二号証の一、二、第四三ないし第四五号証を提出し、第四一号証の一、二、は本件係争山林附近の航空写真であると述べ、証人鍵原福松、同天野勘太郎、同西嶋市平、同水野介夫、同前山のぶ、同渡辺徳義、同土肥実康の各証言、ならびに検証(第一、二回)の結果を援用し、乙第一号証、同第四号証の一、二は原本の存在ならびにその成立を認める、その余の乙号証の成立はいずれも不知、新乙第一ないし第五号証、第一〇ないし第一九号証、第二〇号証の一、二、第二九号証、第三一号証は原本の存在ならびにその成立とも不知、第二一号証、第三三号証、第四四号証、第四七号証の成立はいずれも不知、第六号証は五木村長の作成部分の成立は認めるが、その余の部分の成立は不知、第二二号証は字図の写であることは認めるが、この写には原本に記載されていない事項が記載されている、第三四号証は郵便官署部分および別紙書留郵便物受領書部分の成立は認めるが、その余の成立は不知、第三五号証は郵便官署部分の成立は認めるが、その余の成立は不知、第四五証は電報部分の成立は認めるが、名刺の成立は不知、その余の新乙号各証の成立は認める(第二八、第四〇、第四一、第四二の一はいずれも原本の存在とその成立とも認める)、と述べ、

参加訴訟代理人は、乙第一ないし第三号証、第四号証の一、二、新乙第一ないし第八号証、第九号証の一ないし六、第一〇ないし第一九号証、第二〇号証の一、二、第二一ないし第二三号証、第二八ないし第四一号証、第四二号証の一、二、第四三ないし第四七号証、第四八号証の一ないし四を提出し、第二四ないし第二七号証は撤回により欠号)、証人影山久遠(第一、二回)、同岡部俊佐(第一、二回)、同横山茂樹、同帯金宏之、同前田正勝、同稗村二雄、同岩崎健太郎、同水本タネ、同岩崎サキ、同吉田為八、同土肥政人、同尾方早人、同兼田豪、同岩崎スナ、同上原卯一の各証言を援用し、甲第三二証の一ないし三、第三九号証の一、二、第四〇号証、第四二号証の一、二、第四三ないし第四五号証の成立はいずれも不知、第四一号証の一、二は原告主張の航空写真であることは認める、その余の甲号各証の成立はいずれも認める、と述べた。

理由

一、明治三九年一二月二五日、熊本大林区署において請求原因事実一、記載の1以下順次51にいたる線について境界査定を行い、明治四〇年一月中これが査定処分の通告をなしたこと自体は(その査定の効力の点を除く)当事者間に争いがない。

したがつて、右境界査定当時国有地と民有地とが右境界査定線附近において隣接していたとすると、査定の手続において適法に履践され、その査定処分に対し、訴願の申立がなく、該処分が確定したとすれば、査定の効力として右査定線が境界線となるとともに、該境界線を超えてその所有を争うことができなくなるものといわなければならない。

しかし、境界査定の当時国有地と民有地とが隣接していないとすれば、境界査定としては効力を生ずるに由ない。(隣接している甲、乙両地がともに民有地であるのに、国が甲地を国有と誤信して、甲、乙地間に堺界査定をなしたとしても、その査定処分により直ちには甲地が国有となり査定線が民地との境界となるものとはいえない。)

ところで、右1ないし51の線を境としてその東側が分筆前の一五七二番(その全部であるか一部分であるかの点はしばらく措く)であることは当事者間に争いがないので、右一五七二番に隣接して西側に国有地である一五七六番、一五七七番の二(両地が国有地であることは当事者間に争いがない。)が存在しているかどうかが、本件係争山林の帰属を定める重要な争点の一つである。

原告は一五七二番の二は現実には存在しない登記名義のみある架空の土地であると主張するけれども、それが架空の土地であるというには一五七二番の二の分筆前の一五七二番の母番の土地が原告主張のとおり未墾地買収にかかる部分と現在山陽パルプ株式会社が所有している現地松山部分だけであることが前提とならざるをえないし、もしそうでなく、母番一五七二番に本件係争地が含まれていたとすると、本件係争地を一五七二番の二として分筆するかぎり、その分筆の方法、形式いかんにかかわらず一五七二番の二は現実に存在することになるので、その点からしても、一五七二番の西側隣接地に原告主張の国有地が存在したかどうかを考察せざるをえない。

二、成立に争いのない新乙第二八号証(明治二六年度調整の五木村役場備付の一筆限帳)と甲第八号証および弁論の全趣旨により真正に成立したと認められる同第三九号証によると、明治三九年一二月二五日の境界査定当時、国が一五七七番の二、一五七六番、一五七一番、一五七三番、一五七一番の二を所有していたことが認められる(一五七七番の二、一五七六番が当時国有地であつたことは当事者間に争いがない。)とともに、文書の方式趣旨により公文書とて真正に成立したと認められる甲第四三号証と右新乙第二八号証によると、右一五七七番の二は溝口重作の上地にかかるものであることが認められる。

つぎに、成立に争いのない甲第一一号証(請書)によると、この文書は大正一三年一一月本件係争山林に隣接する民有地について、その所有者が、所有地番の所在を図面を添えて熊本大林区署に上申したものであることが認められ、それには、野々下長次郎所有の一五七七番の山林の位置は、「東、片山、山下共有地峰限リ、西、津ヶ原、山下峰限リ、南、同上及片山、山下峰限リ、北、朴ノ木谷限リ」とあり溝口重作所有の一五七七番の山林の位置は「東、津ヶ原、山下峰限リ、西、字村ト谷限リ、南、大鳥越谷限リ、北、峰限リ、一五七二番及道越上地界並ニ中村官山界」とあり、津ヶ原利三郎所有の一五七九番の山林の位置は「東、岩本、竹下共有山ト谷限リ界、西、溝口、山下峰限リ、南大鳥越ニ沿ヒタル谷川限リ、北、野々下山ト峰限リ」とあり、当該地番の現地を指示するものとして添付してある図面は、本件係争山林の検証の結果(第二回)と対比するとほぼ現地の地形と一致している。以上の事実関係からすると、本件係争山林に隣接する土地として現実に一五七七番、一五七二番、一五七五番がある(一五七五番が隣接しているかどうかは一五七七番、一五七二番のごとくには明確ではないが、同図面の朴ノ木谷の谷川の上流水源が本件係争山林南側まで延びているとすると、-検証の結果(第二回)によると、朴ノ木谷は境界査定点38点迄上つている-右一五七五番も本件係争山林に隣接していることになる)こととなるので、その限りにおいては本件係争地に隣接して一五七七番の二があるとの原告の主張事実は現地と符合し、また一五七五番に隣接する一五七六番が本件係争地内に存在するとの主張事実もあながち不自然ではないことになる。

成立に争いのない甲第一二号証の一ないし三(森林調査野帳謄本送付書、森林調査野帳謄本、実測図謄本)によると、同号証は熊本県農地林務部において本件係争山林附近の民有林につき民有林の所有者の別、樹種、林相等により所有の区域を明らかにするため調整されたものであることが認められるとともに、これに文書の方式趣旨により公文書として真正に成立したと認められる甲第四〇号証および甲第四三ないし第四五号証(ただし同号証の記載内容中甲第三一号証とあるのは甲第四〇号証の誤りと認める)とを総合すると、本件係争地の南西側に隣接して溝口隆義の先々代重作のときより引き続き、一五七七番の山林を所有し、右溝口所有地の南側に憐接して津ヶ原利彦の先々代津ヶ原利三次のときより現在まで引き続き一五七九番の山林を所有していたことが認められる。この事実関係からすると字図の地番は実地と一致せず、右各山林範囲に関する限りは原告主張のように本件係争山林に一五七七番が隣接し、本件係争山林中には分割前の母番の一五七七番の一部が包含されていたものと認められる。(もつとも、右甲第一二号証の三は原告主張の境界査定図および検証の結果(第二回)必ずしも完全には一致しないが、一七五番の北側の朴ノ木谷上流分水嶺尖端部分についての植林が地形・地質の関係で困難のため放置され該部分が年月の経過により野々下の管理より離脱したものと推測されなくもない。)

なお、文書の方式・趣旨により公文書として真正に成立したと認められる甲第四〇号証、同第四二号証の一、二、字上小鶴附近の航空写真であることについて争いのない同第四一号証の一、二、前掲甲第一二号証の一、二に、証人土肥実康の証言を総合すると、字上小鶴一帯は字図の地番と実地の関係は本件係争地にかぎらず、全域に亘つて混乱し、所在位置が入り乱れ、転倒していることが認められるので、字図にもとづき一五七二番の所在を西北は八代郡界に接し、北東は官有地一五七〇番、一五七七番に接続し、西南は一五七三と接続している旨夫々述べている新乙第一一ないし第一九号証、二〇号証の一、二、同第三八、三九号証、同第四二号証の二によつては前認定を履えしえない。また、成立に争いのない新乙第九号証の一ないし六によると登記簿上の一五七二番の二に対して課税していることが認められるけれども、弁論の全趣旨によると一五七二番の二が本件係争山林の現地にあたるとしての課税とは認められないので、右課税の事実も前認定の妨げとならないし、その他前認定を左右するに足りる証拠はない。

以上考察したとおり、本件係争地には原告主張の境界査定当時境界査定線附近を境にして原告所有の国有林が存在していたことが認められ、その地の証拠によつては右の認定を動かしえない。

三、右認定のごとく本件係争地内に国有地の存在が認められるのであるが、参加人は極力分筆前の一五七二番が八代郡界に接していたと主張するので更にその点について検討を加えることにする。

右一五七二番が元土肥亀吉の所有であつたことは当事者間に争いがなく、成立に争いのない甲第三三号証の一によると、同山林は明治四四年二月六日土肥亀吉が中川初太郎に譲渡し、その後大西和平らに譲渡されたことが認められ、成立に争いのない甲第三五号証、同第三六号証の一ないし三、同号証の四の一、二、同号証の五、六、同第三七、三八号証、文書の方式・趣旨により公文書として真正に成立したと認められる同第三九号証の一、二によると、その土地の範囲については、原告大西和平外一名、被告土肥亀吉間の熊本地方裁判所大正八年(ナ)第一二三号事件においても問題となつたこと、該訴訟事件につき現地において証人として尋問された熊本大林区署在勤山林属正岡正八郎は「本件係争地域は国有林であつて一五七二番の一部ではない」旨現地を指示して証言しており(この証言は一応措信できる)、また、山下清太郎からの問合せに対し、土肥要(土肥要は土肥亀吉の嗣子であることが証人土肥政人の証言によつて認められる)が土肥亀吉から中川初太郎に売渡した一五七二番の所在・範囲を見取図面を添えて説明の回答をしているその図面(成立に争いのない甲第三六号証の四の二)と回答文書(成立に争いのない甲第三六号証の四の一、同号証の三に「綾雄」とあるは「要」の偽名であることは同号証の五によつて明らかである)ならびに検証の結果(第二回)を彼此対照すると、土肥亀吉が中川初太郎に譲渡した一五七二番の現地は本件係争地を含むものでないことが認められる。(甲第三六号証の四の二の図面「中川初太郎ニ売渡分」とある西側の川の上流は同図面の「国有林ザカイ」の線を越えて遡つているし、参加人主張のように本件係争地が一五七二番であるとすると右「国有林ザカイ」は八代郡境の嶺であつて川がこれを越えて図示されることはありえないし、また、同図面中の「山下の家、黒枝の家」の位置と甲第三六号証の四の一の中の「日ビラダケデス」〔日ビラの意味が日当側であることは証人水本タメ、同上原卯一の証言によつて明らかである〕の文言と、右検証の結果とを総合すると、本件係争地は一五七二番の範囲でないと認めるのが相当である。なお、右甲第三六号証の四の二の図面中「イナリノ元」について検討するに、右検証の結果によると、検証当時(昭和三九年四月二七日)八代郡境附近に「稲荷」を祭つてあつたことを窺知させるがごとき形跡の存在はみあたらない。証人水本タメ、同岩崎サキの証言によると稲荷は「カドワリの稲荷」と称せられており、岩の下に祭られていたことが認められるとともに、その場所は黒枝の家から上りつめた峠附近であることが認められ、右検証の結果と右事実を対比すると現地において参加人の指示する場所には岩はなく、その地形、岩の存在等からして、むしろ原告において「カドワリの岩」として指示した場所に「稲荷」を祭つてあつたものと推認できるので、前記甲第三六号証の四の二の図面中の「イナリノ元」は右検証における「カドワリの岩」附近を図示したものと認めるのが相当である〔この認定に反する証人上原卯一の証言の一部は証拠にとらない。〕ので、同図面中の「イナリノ元」の図示位置からして同図面の「国有林ザカイ」が八代郡境に該当し、「中川初太郎ニ売渡分」の地域が本件係争地にあたると断ずることは到底できない。)。

また、新乙第二一号証には本件係争地に国が檜を植栽した当時該地域は土肥亀吉が支配管理していた旨の記載があるが、同号証の作成者である岩崎健太郎、水本タメ、岩崎サキが当裁判所において証人としてなした証言によると右の記載内容事実は必ずしも明確でない。のみならず、証人土肥実康の証言と土肥政人の証言の一部によると、五木村においては往時上地しても国において植林しない限り、上地地域の自家用薪炭のための雑木伐採や採草は黙認されていたことと、前記のごとく一五七六番が土肥亀吉の上地にかかる土地であることをも勘案すると、たとい本件係争山林附近を土肥亀吉において採草した事実があつたとしても、前認定の事実を履えしえないし、その他本件係争地附近の採草について土肥家に年貢を納めていたとの証人上原卯一の証書はその採草の場所が必ずしも明らかでないし、前認定の事実関係からして、本件係争地が土肥亀吉の所有であつたとまでの確証とはなりえない。

要するに前記境界査定当時土肥亀吉所有の一五七二番が八代郡と境を接し郡界をなしていたと認めるべき確証はない。

四、以上一、二、三において説示したとおり、原告主張の境界査定当時境界査定線附近に原告の国有地(少なくとも一五七七番の二、一五七六番)が存在し、この国有地に隣接して、溝口重作所有の一五七七番、野々上長次郎所有の一五七五番、土肥亀吉所有の一五七二番の民有地が存在していたことが認められるとともに、反面一五七二番が八代郡界と接していたことのない事実が認められ、ただ、右査定当時右官民有の境界が客観的に明確であつたとは認められないが、冒頭説示のとおり、たとい客観的に不明確であつたとしても(否、不明確であればこそ)、境界査定が適法に実施され、その処分が確定する限り、その査定線をもつて国有地の範囲もまた確定するものといわなければならない。

そうすると、右境界査定に関しなしたという参加人主張の交換契約は法的にその前提を失い存在の余地はないもののようであるが、査定官の境界についての認識と故意に著しく右認識と異る査定線の引き方いかんによつては事実上の交換契約もありうることであるから、被告主張の交換契約の存否について更に判断することとする。

(イ)、参加人は原告主張の境界査定はその実交換契約であつて、境界査定は単に名を藉りたたにすぎないというのであるが、前認定のとおり国有地と民有地が隣接していたこと、その隣接境界が明確でなかつたこと、査定官が交換契約をなす法律上の権限を有していたことを認めるべき資料のないことからしても原告主張の境界査定をもつて単なる形式にすぎないものとは認められない。また、右の事実関係ならびに国有財産の交換に関する諸規定の手続を履践したことを認めるに足りる証拠のないことからすると、交換契約により国が本件係争地を取得した後に境界査定をなしたとも考えられない。

もつとも、新乙第一ないし第八号証(弁論の全趣旨により原本の存在およびその成立が認められる)によると、参加人主張に副うごとき交換契約の存在した旨の記載があり、証人影山久遠(第二回)同岡部俊佐(第一、二回)の証言中にも右の事実にそうがごとき証言部分があるけれども、該記載内容および証言は、つぎの事実、すなわち、前認定のとおりの国有、民有の隣接の事実関係、当時本件係争地が価値として左程重視すべきものでなかつた事実(この事実は証人土肥実康同土肥政人(一部)の証言によつて認められる)、土肥要自身が営林署の担当職員の補助者として本件係争地に檜を長期間に亘つて植栽し、その間特に土肥亀吉、要において異議をとなえた形跡の認められないこと(以上の事実は証人岩崎健太郎、同土肥政人(一部)、同土肥実康の各証言によつて認められる)、植栽を完了した後においても土肥亀吉、要において民有地であると主張してその確認・払下などを求めたことを認めうる証拠はなく、弁論の全趣旨によると、本件係争山林についての払下等の行為にでたのは、土肥亀吉が一五七二番を他に譲渡し、転々取得した者からはじめてなされたものと認められることなどからしてたやすく措信しがたく、他に交換契約存在の確証はない。

(ロ)、右(イ)、認定のとおり交換契約の存在は認められないが以上の認定事実関係からしても、国有地と民有地は隣接していたものの、国有地の一部がもともと民有地を上地したものにかかる部分を包含していた関係もあつて、その境界はきわめて不明確であつたことが窺知され、この事実と証人土肥政人の証言の一部と弁論の全趣旨を総合すると、一五七二番の所有者土肥亀吉において査定線についていささか不審の申述がなされ、査定官において右査定線を土肥亀吉に説得するにあたつて、該査定線で承諾するにおいては、後日土肥の上地ですでに官において植林ずみの部分などの下戻について便宜をはかることもありうる程度のことを表意したであろうこと、そのことが後日になつて字図と現地の相違と相重つて問題惹起の因をなすにいたつたと推認できなくもない。

五、右のとおり交換契約は、これを認めるに由なく、その存在を前提とする参加人の契約解除の主張もまた理由がないといわなければならない。

そこで、前認定の境界査定が有効であるかどうかについて審究する。

境界査定の外形的事実の存在は当事者間に争いがなく、成立に争いのない甲第一ないし第四号証によると、右境界査定処分は適法になされたことが認められる。(もつとも成立に争いのない甲第三号証によると、土肥亀吉に対する境界査定立会通知書には「明治三九年一二月二五日」の記載があるが、弁論の全趣旨によつて認められる他の立会通知人野々下長次郎、溝口重作に対する通知が明治三九年一一月二五日となつている事実と、右境界査定に土肥亀吉の養子要が現実に立会つていることからして、右の「明治三九年一二月二五日「の日付は明治三九年一一月二五日の誤記であると認めるので、立会通知は適式になされたと認められる。)

なお、成立に争いのない甲第六号証(国有林境界査定図)には隣接民地間の境界について、一五七二番と一五七五番の境界が11点、一五七五番と一五七七番の境界が26点となつていて、右民地間の境界は前記認定の事実からすると事実と符合しないが、境界査定処分は国有地とその他の所有林との境界を確定することが目的であつて民有地間の境界を重視しなかつたための過誤と認められ、また右境界査定に隣接民有地の所有者が立会つていること(一五七二番の所有者土肥亀吉が立会つていることは当事者間に争いがないし、他の隣接所有者が立会つていることは参加人において明らかに争わないところである。)からして、右の過誤は境界査定処分を無効にする理由とはならない。他に境界査定手続におけるかしはみあたらない。しかして、右境界査定処分に対し法定の期間に訴願の申立のなかつたことは弁論の全趣旨により認められるので、本件係争地は冒頭説示のとおり原告主張の境界査定により原告の所有に帰したといわなければならない。

六、よつて、すすんで参加人主張の競売による原始取得について判断する。

そもそも、不動産については動産におけると異なり、たとい競落によつたとしても、債務者所有以外の物件を原始的に取得するいわれのないことは原告主張のとおりであるから、参加人の原始取得の主張は採用できない。

七、以上各認定事実と、成立に争いのない甲第一三ないし第一五号証、第一六号証の一ないし六、第一七号証の一ないし四、第一八号証、第一九号証の一ないし四、第二〇号証の一ないし三、第二二号証の一ないし五、第二三ないし第二五号証、第二六号証の一な号し四、第二七号証、第二八号証の一ないし三、第二九号証、第三〇号証、第三一号証の一ないし三、第三三号証の一ないし三を総合すると、本件係争山林を一五七二番の二の現地に該当するものとして分筆したのは、原告主張の経緯をたどつて作出されたものであると認めるのが相当である。(右分筆と売買に関し、弁護士石原又次郎、司法書籾田敏雄は公正証書原本不実記載、同行使、土地家屋調査士法違反(石原は外に詐欺罪)によりいずれも有罪の確定判決をうけたことは当裁判所に顕著な事実である。)

八、右のとおり、本件係争地は原告主張の境界査定処分の確定により、原告の所有に帰したものというべく、前認定のとおり、その後本件係争地に原告が檜を明治四一年から四四年まで植栽したのであり、現在本件係争地内に生立している檜の立木は右植栽にかかるものおよびその後原告において補植したもので、原告において爾来五〇年以上に亘り、支配・管理し、明認も施してきたものであることは成立に争いのない甲第一〇号証と検証の結果(第二回)と弁論の全趣旨によつて認められるので、本件係争地内の立木も原告の所有であり、これが伐倒木である第二物件記載の物件(第二物件目録記載の伐採木が本件係争山林の伐倒木であることは参加人において明らかに争わないところである)も、原告の所有と断ぜざるをえない。

(結論)

叙上説示のとおりであつて、別紙第一物件目録記載の不動産と第二物件目録記載の檜伐倒木はいずれも原告の所有と認められるところ、参加人において、右第一物件目録記載の不動産は参加人の所有であり、また、第二物件目録記載の檜伐倒木は参加人の承継取得した一五七二番の二の立木を伐採したものであるとして、原告の所有権を争う以上原告において、これが確認を求める利益があるものというべきである。

よつて、原告の請求は正当であるから、これを認容し、訴訟費用の負担について、民事訴訟法第八九条を適用して主文のとおり判決する。

(裁判官 後藤寛治 志水義文 畑地昭祖)

第一、二物件目録〈省略〉

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